わたしと他人しかいない世界に生きてます

自分という存在を変態的に観察しまくる人のアタマの中。不定期。

嫉妬する人

突然ですが

ねたまれたことってあります?

 

第一形態

「イイナー ウラヤマシイ〜」

  ↓

第二形態

「ズルイ〜」

  ↓

第三形態

「あいつより、自分の方が優れてるはずなのに……キィィィ」

 

 

第二形態→第三形態 になると

もうこじらせ度100%なんで

対象のポジティブな状態がすべて許せないわけです。

 

対象の幸せな姿にイラだち

よい状態に向かおうとすると水を差し

細かいことにもマウントに努める。

 

対象が理不尽に遭えば

「あなたの○○が原因」と追い討ちをかけてサゲる。

 

○○には

外見や振る舞い、性格とか

当人にとっては、変えにくくて当たり前のことが多いイメージ。

 

そして対象が幸せそうだと、気分が害されるようで

「あいつのせいで気ィ悪いわー」と

さらに対象に対する思いをこじらせて八つ当たり。

 

いわゆる〈リア充爆発しろ〉状態ですね。

 

対象のことをつぶさに観察してて

暇で体力余ってるもんだから

もうそればっかりに集中しています。

 

前回、挙げた

スネてる人

というのがやりがちですね。

 

嫉妬される側は

精神的にも体力的にも削られるので

たまったもんじゃないんですけどね。

 

 

「今ここの自分に集中して生きる」

ということが、双方にとって必要だと思います。

付き合いつづけるのが難しいと思う人

継続的な関係を結べない人……

いわゆる〈つきあいにくい人〉って

様々なタイプがあるかと思いますが

 

私が思う

「付き合いつづけるのが難しいな」

と思うタイプのひとつに

 

スネてる人

 

というのがあります。

 

「どうせ私なんて〇〇してもらえない」

とか

「あなたは**だからさあ(私のことはわからないでしょ)」

とか

そういうこと言いがちな感じです。

 

これを何度も繰りだすので

軒並み会話は盛り上がらず

気まずい空気は流れ放題。

 

こういう人に当たったとき

心の中のチャラ男※を登場させて

(※めちゃくちゃ偏見)

 

「オイオイ、スネんなよ、子猫ちゃん。

 そんなこと言ってないだろ?」

 

とか言い続けるわけです。

 

そもそも自分がチャラ男キャラなら

それすら楽しめる相手なら

続けていくこともできますが

 

これが年単位になってくると

だんだんやってられなくなります。

 

 

この“スネ”は

嫉妬の現れなんですが

それに気づかないので

 

繰り出される側としては

正直たまったもんではありません。

 

特に親しい人が繰り返していると

目の前で自己と他者を否定し続けるので

二重の不快さを他者に与えます。

 

 

自分にないものを求める気持ちは

誰しもあるものだと思うので

スネたりする気持ちもわからいではないのですが

 

自分の中にある

〈ないもの〉

という穴ばかりを見て

 

その穴を埋めようとしても

本当に求めているものは【それ】じゃないので

 

たぶん

満たされることってないんじゃないかなあと思います。

 

本人以上に本人を知っている人はいない

同じメンバーとの付き合いが増えると

 

自分とはどんな人物か

 

ということって

ついつい

 

誰でも知っているはずだ

 

と思ってしまうものです。

 

 

 

物販で接客の仕事をしていたとき

まれにあったことなんですが

 

常連ではないお客さんが入店してきて

店内には、そのお1人しかいない状況で

少し離れたところで待機していると

 

そのお客さんから

 

「待機してなくていいですよ。

 他の仕事があるんじゃないですか?

 私は見てるだけですから、どうぞそちらへ」

 

と言われることがありました。

 

 

「見てるだけなのに……」

という気持ちから

待機されていることへの気まずさがあって

そういう風におっしゃったんだろうなー

 

なんて善良な人なんだろう

 

と思うのですが

 

同時に

 

善良さを発揮する方向を間違えている人だな

 

と思ってしまいます。

 

 

なぜなら

 

そのお客さんが

本当に善良で安全な人かどうか

私は知らないからです。

 

そもそもほぼ初対面です。

 

 

日本は法治国家であり

基本的には

社会秩序も比較的安定している(と思う)ので

 

おそらくその方も善良で安全な人でしょう。

 

 

でも

それを知っているのは

その場にいる人物の中では

そのお客さん本人だけです。

 

 

おそらく

その方は他の場所でも

同じように振る舞っておられることでしょう。

 

そして、たぶん気づいていません。

 

本人以上に本人を知っている人など

この世にはほとんどいないということを。

すぐ「責任をとりますから」と言う人

私の中で、最も〈信用できない〉と思う人

それは

 

「私が責任をとりますから」

 

とすぐに軽々しく口にする人。

 

 

その場の状況や

口にしたその人の人となりもあるので

一概には言えませんが

 

こういうことばをすぐに口にする人は

信用できないと考えています。

 

なぜなら、責任なんてほぼとれないからです。

 

 

そもそも

責任をとるってなんだって話です。

 

〈どうやって責任をとるか〉まで

明示するのが、責任をとる姿勢だと思います。

 

誠実な姿勢というものが求められる場面で

 

相手に対してどんなことをすれば

誠実なのか

責任を取れるのか

 

真剣に考えていたら

簡単に口にできないことばだと思います。

 

 

つい言いたくなる気持ちはわかるんですが

 

残念ながら

行動を伴わないことばは

どうやっても軽く見られると思います。

 

 

しようと思っていたけどできなかった

 

ということは往々にしてあります。

誰にでもあります。

私にもあります。

 

 

だからこそ

結果的に責任が取れなかったときに

発したことばの重さを

自分が思っていた以上に軽くしないためにも

 

「責任をとりますから」

と軽々しく口にすべきではないと思うのです。

全力をださないとやがて全力は出せなくなる

「まだ本気じゃないだけ」

「全力の俺はもっとすごい」

みたいなことを捨て台詞でいう人がいますけど

 

それを言う時点で

そういう人はほとんどの場合

本気も全力も出せなくなってます。

(もちろん、そうじゃない人もいます)

 

 

高校生くらいまで

スイミングスクールに通っていたのですが

そのときに、一緒に泳いでいたおじちゃんから

100%を出し切ることの大切さを教えてもらったんです。

 

実際に、全力で泳ごうとすると

実はそんなに早く泳げないんですよ。

 

無駄にエネルギーを使うもんだから

空回りして、前に進まないんです。

 

およそ80〜90%くらいの感じで泳ぐと

すーっと早く泳げるんです。

 

だから、全力を出すことって必要なんだよ

って。

 

 

ここでロジック的なことを言うと

この100%とか80%とかって

比率なんですよね。

 

つまり、そもそも100%がわかってないと

「このくらい」という比率がわからない。

 

手を抜く感覚もわからないことになります。

 

 

年齢を重ねると

自分の本気とか全力を出さなくなる、

あるいは出さなくてもいいように

効率的にできるようになるんですが

 

そうすると

いつの間にか


「自分の全力ってどんなだったっけ」

 

みたいになるんです。

 

出し方を忘れてしまうと

そのうち言い訳をするようになります。

 

そこから嫉妬と自己嫌悪のループに入っちゃう人もいます。

 

効率的にできるようになるのは

人生経験の賜物だし

素晴らしいことなんですけどね。

 

ただ、たまには全力だしてみないと。

いつまでも自分の昔にしがみつくことにもなりかねません。

 

 

ただ

本気や全力を出そうと出さまいと

それは、その人のそのときのベストな選択と行動なので

どちらにしても嘲笑の対象にはならないと思います。

想像より誰もあなたのことを見ていない

思春期を迎える頃から

〈他人から見た自分〉への関心は

徐々に高くなっていくと言われています。

 

つまり

他人からどう見られているか

ということなんですけど

 

30代半ばを過ぎて感じることは

 

想像しているよりもはるかに

他人は自分に関心がない

 

ということです。

 

 

見た目に関してならば

 

某メイク教室にいって

一緒に学ぶメンバーのスッピンがどうかとか

毛穴がどうだとか

肌がくすんでいたかどうかとか

思い出せません。

 

そもそも

私は近眼なので見えないというのもありますが。

 

内面に関しても同様です。

 

というか、内面は誰にも見ることのできないものです。

 

自分がどう自分という歴史を生きてきたかとか

どんな価値観を持っているのかとか

どんな人を好むのかとか

どんなことを他人に期待しているのかとか

 

見る機会もありませんし

なんなら、ことばにする機会も少ない人も多いでしょう。

 

 

自分からアクションを起こさない限り

自分のことは誰にも知る機会がない

 

頭ではわかっている事実なんですが

〈自分だけは特別な存在〉

〈ずっと一緒にいる人はわかってくれるはず〉

〈普通○○するはず〉(=自分の中の常識)

という無意識の思い込みが

この事実を忘れさせてしまうことが多々あります。

 

人はみな

自分の人生を生きることだけで精一杯で

自分自身のことすらおろそかにする人がいる中で

どうやって他人のことまで注意できるのか。

 

こう考えると

案外、自分のことを見ている人ってほとんどいません。

 

というか、その人のモノサシやメガネで

ほんの一部分を見て取り上げるに過ぎません。

 

 

年齢を重ねて、他人の目をないもののように扱う人もいますが

そういった極端な人をのぞいて

 

基本的には

他人の目ってあまり気にしなくていいように思いますし

 

なにか「ここだけは見てほしい!」ということがあるなら

アピールすると、意外と受け入れてもらえることが多いです。

 

自分軸と他人軸

お悩みの方が多いようなコミュニティに行くと

「〈自分軸〉を持ちたいんです……」

という話をする方がいます。

 

話を聞くと

他人の思惑に振り回されてしまって

疲れてしまうことが多いそうです。

 

大変ですねーって思いますが

同時に

 

〈自分軸〉の何がそんなにいいのか

〈他人軸〉の何がそんなにだめなのか

 

と思います。

 

 

占星術を勉強したときに

出生時のホロスコープ(ネイタルチャート)をみると

 

そもそも

〈他人軸〉傾向の人と

〈自分軸〉傾向の人がいたりします。

 

もちろん、どちらでもない人もいます。

 

私には〈自分軸〉と〈他人軸〉の

どちらがいいとも判断できません。

 

どっちもどっちですから。

 

だから本当は

軸がどうとかじゃなくて

 

【自分がどう在るか】

 

ということなんじゃないかと思います。

 

仮に〈自分軸〉が手に入ったとして

その人の困りごとが解決するようには感じませんし。

 

 

 

ちなみに

 

ネイタルチャート上

強い〈自分軸〉の性質をもった私は

「合わせてあげてもいい」という

自分の意思に基づくときだけ

〈他人軸〉のように振る舞うことができます。

 

逆に夫さんはナチュラルボーンな

〈他人軸〉の人で

うらやましくもありますが

振り回されているときは辛そうです。

 

 

自分のこころを快適な状態に保つためには

 

ないものねだりにならぬよう

注意深く確認しながら

〈自分軸〉〈他人軸〉の要素を

少しずつ取り入れていくのがよいのかな、と

経験則的に感じます。