わたしと他人しかいない世界に生きてます

自分という存在を変態的に観察しまくる人のアタマの中。不定期。

どんな人とパートナーになるか? 他人は鏡 パートナー編

実は、どんな人がパートナーになるかって簡単にわかります。

 

それは

 

そのときの自分と釣り合う人

 

です。

 

 

自分をぞんざいに扱う人には

他者をぞんざいに扱う人が

 

他人を幸せにしようとする人には

その人を幸せにしてくれる人が

 

自分で自分を卑下する人には

卑下してくる人が

 

すーっと近寄ってくるんですよ。

で、くっつく。

 

 

よくスピリチュアルな感じで

「そのときのあなたのレベルに合った人と引き合う」

みたいな話が語られることがあって

 

当時の自分では理解できなかったけど

あとになって、振り返って納得するんですよね。

 

面白いくらい、勝手に縁が切れます。

 

 

個人的に興味があって

某結婚相談所の方のTwitterやブログなんかを読んでますが

つながりのある仲人さんたちも

みなさん口をそろえて言うのが

 

「低いスペックの人からばかり申し込まれて

 至極不快だという人がいるが

 それがあなたの今の価値です」

 

という話。

 

厳しいなあ、と思いましたけど

でも実際そうですよね。

 

人は誰しも

〈自分は特別〉と思いたいもんです。

私もそうです。

 

だけど、実際には特殊なだけで

特別だとは限りません。

 

【特別 ≠ 特殊】です。

 

 

私も過去に、結構辛いことがありましたけど

やっぱりそのときの自分に釣り合ってたと思います。

 

 

今の私の周りはどうかというと

釣り合っているというか

 

こんな人が、私と結婚してくれてるなんて!?

こんな人が、私と仲良くしてくれるなんて?!?!!

 

みたいな人が多いですね。

すごい人多い。

みんな個性が輝きまくっています。

 

自分でもよくわかりませんが

そういう人に囲まれていると楽しいですね。

 

他人に対して、瞬間的な不満はありますが

「これもこの人の長所の裏返しみたいなもんだしな」

と思うと、ほとんどの不満は解消されます。

(あとは理不尽だけが残る)

 

 

というわけで

なんとなく周囲の人に不満を感じている人がいたら

「私、どうなんだろう?」

って振り返るのをオススメします。

 

大体、周りも自分も見えてないですから。

 

自分で自分に向き合うって、そういうことです。

 

 

あ、もちろん

意味のない理不尽に耐える必要はありませんよ。

ただ座ってるだけなのに殴られるとか

それはさすがに付き合わない方がお互いのためです。

 

 

道を踏み外していても

私は団塊Jrの世代なもので

模範的な〈幸福な人生〉って

 

大学卒業して就職して

何年かしたら結婚して

子どもが生まれて

専業主婦になって

一軒家とか建てたりして

 

みたいな感じでしょうか。

 

今のところ、見事にほとんど達成できてません。

 

バツイチだし(再婚したけど)

子どもはいないし

めちゃくちゃ働いてるし(最近ワーカホリックを卒業)

家は持ってないし(なんなら貯金もあまりない 爆)

 

達成できたのは大学を卒業して就職して

1回結婚したことだけでしょうか。

 

それも見事に離婚したけどね!!!

わはは!

 

 

一時期、ここにコンプレックスを感じていたことがありました。

 

離婚とかさ……

人生の落伍者だよね……

 

1/3は離婚するとか言うけど

あとの2/3は継続してるんですよ?

離婚した人の倍でしょ、倍。

 

あと、ワーカホリックとかさ……

転勤までしてさ……

幼なじみと会話がかみ合わなくて

宇宙人扱いだよ……

 

みたいなね。

 

こういう

模範的な人生を選べたはずなのに

選ばずに、こんなところにきちゃって

うわあ、どうしようってなったんです。

 

 

でも、よく考えたら

一回死にかけたけど、私は今日も生きているし

自由に思うままにどこへでも行けるし

したいことは大体できるし

それで十分じゃない?

って思ったんです。

 

それに、こんな自分でも

両親は愛情を持って接してくれてます。

 

さらに言うと

もし自分が親の立場で、今の自分を見たら

 

「いいよ、生きてるだけで十分だよ」

 

って言ってあげると思うんですよね。

 

 

生きてればいろいろありますけど

いろいろあるのは、生きていればこそ。

 

だから、どんな自分でも

愛していいし愛されてもいい。

そもそも、生きていていいんですよね。

 

 

なので

もうそういうところでは

悩まなくなりました。

 

別にいいじゃないですか

今日も生きてるし。

そんで、明日も無事に生きられたら

最高ですよねー。

 

 

花のように生きる

私の生き方の目標

それは

 

「花のように生きる」

 

 

こう思った経緯は

日常のふとした出来事がきっかけでした。

 

自分の不完全さや

役立たずぶりに打ちのめされ

仕事に疲れ果てて帰宅した、ある夜。

 

自宅で活けていた花に目がとまり

その美しさと可憐さに

ふと笑みがこぼれたことがありました。

 

そのときにハッと気づきました。

 

花は季節がめぐり

最適な気温と日照があれば

子孫を残すという使命のためだけに

懸命に花を咲かせます。

 

誰かの心を温めてやろうとか

人の役に立とうとか

美しくあろうと思っているわけじゃない。

ただひたすらに、自らのいのちを生きているだけ。

 

なのに

こうして、ただ “在る“ というだけで

こんなにも人を笑顔にしたり

優しい気持ちを与えてくれる。

 

自分もこうやって

ただ “在る“ というだけで

自らのいのちを生きるだけで

誰かを笑顔にすることができるかもしれない。

 

 

花が美しいと感じるのは

それを見る人のこころの有り様でもあります。

 

在るものをどうみるのかは

見る人が決めること。

 

だから、自分自身をジャッジせず

懸命に、ただひたすらに自分のいのちを生きる。

 

つまり、花のように生きることが

私の生き方の目標です。

他人は鏡 コンプレックス編

コンプレックスを抱えている人に

〈外見の魅力〉を訊ねると

その人のコンプレックスを

口にすることが往々にしてあるようです。

 

たとえば

「私って目が小さい……」と思っている人に

〈外見の魅力〉を訊ねると

目元に関する魅力を述べてくれたりします。

 

「目が大きい」「目がカワイイ」など。

 

 

いや、そのくらいよく言うでしょ

と思うかもしれませんが

いろんな人に訊ねてみてください。

 

「歯がきれい」とか「口角が上がってる」とか

ちょっと変わったことを言う方があったら

少し突っ込んで理由を訊いてみると

 

わりと

「自分のコンプレックスだと思っているところがないのが魅力」

という答えが返ってくることがありますので。

 

 

もしなんでも伝わるとしたら

某所でいただいた宿題。

 

 

もし、何を言っても伝わるようになったら

何を伝えますか?

 

逆に、何を言っても伝わらないのだとしたら

それでも、何を伝えますか?

 

 

その場でパッと頭の中に浮かんだ

私の答えは

 

「生きることは楽しい」

 

 

どちらの問いにも、同じ答えでした。

 

いかなる生(せい)でも

いかなる状況でも

いかなる生き方をしてきても

どんな自分でも

 

生きることは楽しい

 

 

 

これを読むあなたは

どんな答えが浮かびますか

自分が幸せにできるのは自分しかいない

あるお知り合いからいわれたことば

 

自分が幸せにできるのは自分しかいない

 

このことばは

今でも深く私の心に刺さっています。

 

 

どんなに愛しあい

想いあう人がいたとしても

その人は自分を幸せにしてくれません。

自分がその人を幸せにすることはあっても。

 

愛しあう人どうしなら

【相手の幸せ=自分の幸せ】という人も多いでしょう。

そうなると、自分が幸せであることが

誰かを幸せにする近道、と考えてよさそうです。

 

 

幸せを感じる方法で

一番シンプルで手っ取り早いかなと思うものは

 

自分には選択の自由がある

と感じること

 

でしょうか。

 

人間には肉体がありますので

本来は不自由なんですけど

感じるだけでも十分だと思います。

 

 

「自分を幸せにするには、自分を満たそう」

とか

一時期よく言われてましたね。

 

個人的に、このことばは

あんまりピンとこなかったんですよね……。

 

なぜかというと

「自分が、何をもってして満たされるか?」

つまり

「自分の求めるものは何か?」が

そもそもわからないと、満たしようがないよな、って。

 

わからないまま満たそうとすると

ともすれば

「自分の欲望に忠実になる」みたいな

動物的な行動をとりがちですし。

 

元の意図を考えて

もうちょっと具体的にするなら

〈アンテナを磨いて、幸せを感じる選択をすること〉

と言い換えてもいいかと思います。

 

 

「私には選択肢がない/選択する自由はない」

と考えるとき

不自由を感じ、自分が不幸であると感じます。

 

 

けど

自分を縛るものや考えがあっても

自由でいることはできます。

 

【自分がどうするか、どう考えるか】は

自分で選択することができるので

今のままで幸せを感じるも感じないも

選ぶことができます。

 

 

人それぞれの事情がありますから

一概には言えないんですけど

それだけで、ちょっと変わる人もいるのではないでしょうか。

 

いたらいいな。

キラキラしなくてもいいだろ

自分の周囲が自営業をしていたり

志や崇高な目的をもって活動している人が多いので

 

なんかキラキラしないといけないんじゃないか

 

って、そわそわするときがあります。

 

個人的に一番そわそわしたときは

年収が億単位の人たちに囲まれたときですかね。

 

会話についていけないというか

「ワシ、なんでここにおるんや……?」

みたいな気持ちでした。

 

 

所属しているコミュニティでも

「キラキラしたい」っていう人を

ちょこちょこ見かけます。

 

目指すのは全然悪いことじゃなく

むしろ目標があるって素晴らしいんですけど

ただ

 

本当にその人たちみたいになりたいか

 

ってよく考えた方がいいです。

 

 

ナゾの焦りが出たとき

劣等感がなかったわけじゃないですけど

じゃあ、その年収億単位の人たちになりたいかっていわれたら

別にそれじゃなくてもいいな、ってなったんですよね。

 

同じように

キラキラしたいかっていわれたら

 

した方がいいのかもしれないけど

あまりに抽象的な概念すぎるし

他者の評価なしには〈キラキラしてる〉って言えないから

それは辛そうだし

別に、それじゃなくてよくないか?

 

って私は思ったんですよね。

 

お友だちで

「自分はキラキラしてます!」

っていってる人もいたんで

本当に他者評価がいるかどうかはわかりませんけど(笑)

 

キラキラを目指す人を否定したいわけじゃないんですが

今「私、キラキラしてねぇな」って人は

わかりやすくキラキラするには

相当の誠実性が必要かと。

 

さらに個人的な考えを述べると

 

人には役割があって

みんながみんな

同じような〈キラキラしてそうな雰囲気とか立場〉をやる必要はないと思うんです。

 

 

よく「あなたが主役です」みたいなことばが言われますが

世の中には、主役以外の選択肢もたくさんあります。

 

主役でもいいし

そうじゃなくてもいい。

 

なんなら、場面が変われば

役割が変わることだってありますし。

 

だから今、私としては

キラキラしなくてもいいだろ、って思います。

 

ただ

自分の人生は自分でしか生きられないので

自分の人生の主役は自分しかないんですけどね。

主導権は大切に。