わたしと他人しかいない世界に生きてます

自分という存在を変態的に観察しまくる人のアタマの中。不定期。

常識的な人間という妄想

自分の常識は他人の非常識

 

この意識って必要なことが多いんですが

すぐ薄れますよね。

 

私もしょっちゅう忘れてしまい

周囲が「???」となっているのを見て

ハッとします。

 

自分でもなんとなく

よくいる(typical)という意味での

普通ではない、と自覚しているので

できる限り

「普通、○○だよね」

といった表現は避けています。

 

特に観念的な要素が多く含まれたり

ムラ社会的な要素が含まれる内容において

 

人と人との結びつきを高めるような意味合いで

よくそういった会話が展開されるようですが

傍から見ていて、気持ちのいいものではありません。

 

聞き流したり

適当に相づちをうてばいいのでしょうが

あいにく

そういうハイスキルを持ち合わせていないので

最初から無視をするか、返事をしないようにしています。

 

どうしてものときは

「そうなんだね」

と返事するくらい。

 

 

この場合の

普通、○○だよね

ということばの裏には

 

・私は常識をわきまえている

・私の意見は誰もが持つものと同じはず

・私は常識人だ

・誰だって同じ経験をしているはず

・私はジャッジする側だ

 

といった意味合いが含まれています。

 

つまり

自分の感覚が普遍的であるという

根拠のない自信をお互いに確認しあって

安心するためだけの儀式です。

 

おそらく、本人どうしは

そういった意味を含んだつもりはさらさらないでしょう。 

 

 

もちろん

生理的なことのようにその前提がないと

話が進まないようなこともありますので

この限りではありませんが。

(働いたら相応の対価が生まれるとか

 生きていたらお腹が空くとか)

 

 

よく「あなた、変だよ。おかしい。」と言われた側からすると

〈自分はマジョリティ中のマジョリティ〉感

みたいなものを感じてしまい

なんともいえない居心地の悪さを覚えます。

 

 

ある程度の年齢になって

仲間を得られた身としては

 

こういうやり方でなくても、仲間はできるし

別のやり方で得た仲間の方が

いちいち結束を確認しなくても

つながりを感じられるんだけどなって思います。

 

ま、やり方もつながり方も

人それぞれ、好みいろいろですしね。