わたしと他人しかいない世界に生きてます

自分という存在を変態的に観察しまくる人のアタマの中。不定期。

こころの地雷が多い人

こころの地雷、よく踏むんですよ、私。

空気が読めないもので。

 

 

そんなわけで今回は

「地雷踏まれるからイヤ!」と思うことが多い人について。

 

 

そういう人って

どんな人かというと

 

1、自分の中に、ネガティヴだから隠したいことが多い人

2、自分は努力して結果を出していると思う人

3、特定の認知バイアスが強く、それに気づいていない人

 

かと思います。

 

 

どれもほぼ同じモノから生まれてると思いますが

 

1、のネガティヴで隠したいことは

心理学用語でいうところのシャドウってやつですね。

自分の見たくない暗部というやつです。

 

2、は欠点隠しを努力で補っていると自負している場合ですね。

 

別の記事(【頑張りすぎの人】)でも触れていますが

「私がこんなに努力しているんだから、お前もやれよ」

というプレッシャーを他者に強要してしまいがち。

 

特に

やってなさそうに見える人に対してでやすいようですが

何気ないことでスイッチが入ってしまい爆発

みたいなのを見かけます。

 

誰も頼んでないのに努力するだけですごいんだけど

それ以上を他者に求めるというのは、余計なお世話なのでは……。

 

3、の認知バイアスも心理学用語ですが

誰もが持っている認知のゆがみのことです。

色眼鏡ともいいますね。

 

気づいていないので、指摘されてもわからないので

「わからないことをいうな!」と爆発。

 

とはいえ、認知バイアスは誰にでも大なり小なりあって

なくすことは困難を極めますので

「ある」と認識するだけでも大きな一歩といわれます。

 

 

今述べた3種類のうち

2つ以上が重なると地雷原持ち、と個人的に呼んでいます。

 

こうなると、何がスイッチかわからないので

めちゃくちゃ怖いし

機嫌の上下が激しくて、関わりたくなくなります。

 

さらに地雷原状態が長期化すると

周りが自分の機嫌をとってくれて当たり前になり

 

ある意味において、傲慢さがでてくるようになってしまいます。

 

それでいいならいいんですけどね。

その人の人生ですし、たぶん困らないでしょうし。

 

 

せっかくの人生なので

自分の世界や見識を広げたいなら

こころの地雷は、できる限り減らしたいもんですね。

 

 

おまけですが

私の地雷は、自分の過去の行いを振り返ってとがめられること。

変えられないモノを責められるのは大嫌いです。

 

わたしというあいまいなもの

長年〈私とはなにか〉ということを考えています。

 

最近減りましたが

何度も自分の名前を忘れたりしてまして

そんなときは

紐づいた思い出からたぐり寄せて

自分の名前を思い出してました。

 

名前は記号にしかすぎませんから

別に忘れたっていいし

自分が不快を感じない範囲で

自由に呼んでもらおうと思っています。

 

そんな感じで生きてきたものですから

〈私とはなにか〉という問いに

自分の名前を答えるのに違和感があります。

 

同姓同名の人もいるし

法律婚をして、姓が変わったら

違う人間になるわけじゃないですし

あだ名で呼ばれたらどうかとか

 

突き詰めると、名前に意味はないんですよね。

 

最初の問いに戻ると

〈私とはなにか〉に答えられる人は

そういないと思います。

 

役割や所属などで答えたりする人が多いと思います。

 

でもそれが私そのものではないので

実際、答えるのは難しくて

結局は他者の視点を借りて

その問いに答えるわけです。

 

 

 

NHKの番組で

ねほりんぱほりん」という番組がありまして

とても好きなんですが

 

この番組は、いろんな属性の一般人をゲストに迎え

その方の話を掘り下げまくって聞く、という内容です。

 

その中で、いくつか共通して出てくるのが

「自分が何者かになりたくて」

というキーワードです。

 

〈私とはなにか〉

という問いに対して

自分で答えを作ろうとして

結果的に犯罪を犯したり、他者を害したりしてしまう人がいました。

 

それを見たときに

雷に打たれたような感覚がしました。

 

〈私とはなにか〉という問いが

こんなにも深遠であり

人生を狂わせるほどの罪深さを持つんだ

と、衝撃を受けました。

 

 

私、というもの自体を考えるとき

特に意識としての私を考えるとき

それはあくまで境界線で区切られただけの存在であり

その境界線がなければ

なんであるかもあいまいで、形もないわけで

私と思ってきたものの境界が揺らぎます。

 

たぶん、身体がスタンドアローンであるから

私と他者は違う、と認識できるだけで

本当は、私という存在はないのかもしれません。

 

女性から白い目で見られる男性

接客業を30年ほどやってましたが

わりと高い頻度で

女性から白い目で見られる男性

に出くわします。

 

どんな人かというと

相手が女性とみるや

次のような態度をとる人です。

 

・プライベートに立ち入った質問をしてくる

・でかい声などで威圧してくる

・「俺すげえ、お前もそう思うだろ?だから俺を奉れ」

・男を甘やかすのは女の役目、と思っている

・好みの美女以外はカス扱い

 

 

端的に言うと

女性に嫌われる態度はこんな態度

の典型例です。

女性を下に見る態度というか。

 

こういう方々は、往々にして

人生のどこかで恒常的にカス扱いを受けていたことのある人です。

(進行形含む)

 

そういった方は

これをコミュニケーションのひとつだと思っている節があります。

 

だから、コミュニケーションをとろうとして

積極的にこういう態度をだしながら

近くに寄ってきたりすることがあります。

 

 

特に進行形の人だと

カス扱いにストレスが溜まって

はけ口を求めて、やってもよさそうな他者に向かって

同じようにカス扱いしたりするんですが

 

その態度や行為を見た周囲の人から

「この人はカスだ」

と判断されてしまい

さらにカス扱いの範囲を広げる悪循環に陥っていたりします。

 

運が良ければ

その負のループに気づいて抜け出せる人もいますが

大概の人は抜け出すことができないままです。

 

 

なお、接客業をしていると

女性同伴で来ているのに

女性を下に見るような態度をとる人もおり

となりの女性の冷ややかな視線を浴びている場面も目撃します。

 

もちろん

〈好みの美女以外はカス扱い〉の方も

その目当ての美女からも白い目で見られています。

 

こういうとっても失礼な人は

何度も見ていますけど

だんだん誰にも相手にされなくなってきて

気の毒になるほどです。

 

 

こういった悪循環は何度も見ていますが

原因は自分が相手を裁いているから。

 

「お前何様やねん」

という態度だからです。

 

相手をジャッジするということが

いかに危険なことか。

しかし、いかに止めるのが難しいことか。

 

ほぼ自動的にしてしまうものなんですが

「してしまうものなんだ」という認識があるだけで

セーブすることができます。

 

相手がジャッジするなら

自分もしたっていい

という理屈はやめた方がいいです。

 

ジャッジすることとされることで

何も生み出しはしませんので。

親は子どもをよく見てる

他人の結婚披露宴とかに行くとき

楽しみにしていることがある。

 

それは

 

親から子へのひと言

 

 

これが、その人を

とてもよく言い当てているんですよ。

 

自分の次に

自分と深く関わってきた人の評価って

ほんとーーーーにすごいなって思います。

 

今の自分は

過去の自分の積み重ねなんだ

ということを思い知らされる瞬間です。

 

だからこそ

今この瞬間を積み上げていくことで

未来の自分を創ることができる

そんな風に思わせてくれます。

 

本当の自分がわからなくなったとき

ずっとそばにいてくれた人に

聞いてみたらいいのかもしれません。

頑張りすぎの人

「あ、この人危ないな〜」

と思う人のサイン

 

いくつかあるうちから、ひとつをご紹介。

 

私はこんなに頑張ってるのに

なんであの人は頑張らないんだろう

 

私がこんなに言ってあげてるのに

なぜこの人はちゃんとマジメにやらないの!?

 

こんなことを考えたり

口に出し始めたら要注意。

 

その人

頑張りすぎです。

 

 

こんな人が近くにいたら逃げるか

「あー、頑張りすぎてるんだ、この人」

と見守りつつ、嵐が過ぎ去るのを待ちましょう。

 

もしこれを読んでいるあなたに

思い当たることがあったら

相手を変えるのではなく

自分の視点を変えるときです。

 

 

今はやりの

頑張らなくていいとか

そういうことを言いたいわけではありません。

 

目指すポイントや

そこへ行くまでのプロセス

プロセスを経る最中の動き方など

 

すべての人が同じではありませんので。

 

ご注意。

 

原因がわかると安心、と妄想をする人たち

自分もそうだし

多くの人がそうだけど

何かネガティブなことが起きているとき

 

原因がわかれば安心

 

と考えがちですね。

 

でも

本当にそうなのかって

考えたことあります?

 

 

たとえば

自分が今、不幸だと感じているときに

原因を考えることって多いと思うんですが

 

そういうとき

「悪い親だったから」

「今の環境が良くないところだから」

「占いで悪い結果が出てたから」

とか、いくらでも原因が掘り出せますよね。

 

 

でも

どんなに過去を振り返って

原因を探ったとして

「今、自分がどうするか」

「これから自分がどうするか」なのでは

と思うのです。

 

原因がわかったら

なんか安心しちゃって

それ以上進まない人もたくさんいます。

 

あと

原因がそもそもないこともあります。

 

なんとなく理由付けできると

問題が片付いたように見えてしまうんですが

実は振り返っただけで

先に進んでないんですよね。

 

 

以前、何か失敗したときに

「なぜこうなったんですか?」

と聞かれましたけど

 

「間違えたからですね」

と返答したら

めちゃくちゃ怒られたことがあります。

 

もっと立派な(?)理由が欲しかったみたいなんです。

 

ねえよ、んなもん。

 

 

結局

なにかあって欲しい

場合によって情状酌量してやろうという

お気持ちが原因で

めちゃくちゃ怒られたわけですが

 

こちらからすれば

優しさという名の余計なお世話です。

本音と建前の世界に取り憑かれた人たち

オトナはホンネと建前を使い分けるものだ

というナゾの文化が一部で流布しているようで。

 

以前

この考えに取り憑かれた人たちに囲まれて

計4時間ほど説教を食らったことを思い出す。

 

これが大変な苦痛。

 

どんなに自分の考えを正直に話しても

「あなたのホンネは何?」

とか聞いてきます。

 

怖い

というより、ヤバい。

 

 

この人たちにかかれば

どんなにこちらが思いを語ろうとも

 

そのときの気分やノリ

自分の中の常識とか相手の行動予測、好き嫌い

他人の印象を操作するため

などの

 

ごく個人的な感情や主観のフィルターに通して

それが本音かどうかジャッジされます。

 

 

本音と建前がないとやっていけない職業ならまだしも

日常生活でそんなことをやっていると

そのうち、何も信じればいいかわからなくなって

こころが死ぬと思うのですが

 

世の中には

そういうのが平気なメンタルの持ち主が

いるところにはいるようです。

 

自分からしたら、こんなメンタルの人は

精神のどこかに異常をきたしているのでは……?

と、わたしは本気で不安になります。

 

というか、相手も不安なんですよね。

 

 

この人たちに対峙してしまうと

ないものを「ない」と証明しないといけないので

とても辛いことがあります。

 

ないものを「ない」と証明することを

〈消極的事実の証明〉というそうですが

おそらく、本音と建前の世界に生きている人たちが

この証明を求めてくるのは

とても不安だからだと思います。

 

こころって得体が知れないから。

 

相手のことばがどこまで本気なのか

暗やみのような世界を

少しずつ少しずつ

壊れないかどうかを慎重に確かめながら

探っていかなければなりませんし。

 

 

この世界に取り憑かれてしまうと

何も信じられなくなり、抜け出せなくなります。

 

何を言っても通じなくなりますし

裏の裏の裏の裏の裏の裏まで探ろうとして

疲れ切ってしまいます。

 

 

夫が以前、この世界に取り憑かれて

攻撃してきたことがありますが

その際に彼に伝えたことは

 

「それは相手を二重に縛ることだ」と

まず論理的に伝え

「私はいつでも、思ったことだけを話している。

 それを常に伝えてきたつもりなのに

 伝わってなかったことが悲しいし

 なにより、そんなに疲れてるのがかわいそうだ」

と感情を伝えました。

 

その後、時間をかけて徐々に夫は落ち着きました。

 

個人的には

本音と建前を語らなければならないときは

きちんと相手に分けて伝えることで

自分のこころを守るようにしてます。