わたしと他人しかいない世界に生きてます

自分という存在を変態的に観察しまくる人のアタマの中。不定期。

わたしというあいまいなもの

長年〈私とはなにか〉ということを考えています。

 

最近減りましたが

何度も自分の名前を忘れたりしてまして

そんなときは

紐づいた思い出からたぐり寄せて

自分の名前を思い出してました。

 

名前は記号にしかすぎませんから

別に忘れたっていいし

自分が不快を感じない範囲で

自由に呼んでもらおうと思っています。

 

そんな感じで生きてきたものですから

〈私とはなにか〉という問いに

自分の名前を答えるのに違和感があります。

 

同姓同名の人もいるし

法律婚をして、姓が変わったら

違う人間になるわけじゃないですし

あだ名で呼ばれたらどうかとか

 

突き詰めると、名前に意味はないんですよね。

 

最初の問いに戻ると

〈私とはなにか〉に答えられる人は

そういないと思います。

 

役割や所属などで答えたりする人が多いと思います。

 

でもそれが私そのものではないので

実際、答えるのは難しくて

結局は他者の視点を借りて

その問いに答えるわけです。

 

 

 

NHKの番組で

ねほりんぱほりん」という番組がありまして

とても好きなんですが

 

この番組は、いろんな属性の一般人をゲストに迎え

その方の話を掘り下げまくって聞く、という内容です。

 

その中で、いくつか共通して出てくるのが

「自分が何者かになりたくて」

というキーワードです。

 

〈私とはなにか〉

という問いに対して

自分で答えを作ろうとして

結果的に犯罪を犯したり、他者を害したりしてしまう人がいました。

 

それを見たときに

雷に打たれたような感覚がしました。

 

〈私とはなにか〉という問いが

こんなにも深遠であり

人生を狂わせるほどの罪深さを持つんだ

と、衝撃を受けました。

 

 

私、というもの自体を考えるとき

特に意識としての私を考えるとき

それはあくまで境界線で区切られただけの存在であり

その境界線がなければ

なんであるかもあいまいで、形もないわけで

私と思ってきたものの境界が揺らぎます。

 

たぶん、身体がスタンドアローンであるから

私と他者は違う、と認識できるだけで

本当は、私という存在はないのかもしれません。